

Restaurant La Belle-De-Jourにて ©場場隆
ミシュラン3ッ星レストラン7軒、その他数多くのレストラン経験者として
本質を捉えた深津泰弘が、
居酒屋からレストラン内レストランまで、
あらゆる飲食店の新規オープンから再建といった
コンサルティングを中心に、
プロデュースと「食」に関わるすべての問題を適切に対応いたします。
また、一流レストランで培った技術と知識を活かし、
「料理講師」としても活動をしております。
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安心・安全・品質を大きなテーマとし、時代に焦点を合わせ、
かつ経験に基づいた私の確かな価値観を是非お役立て下さい。
昭和45年、高校の冬休みを利用し、私は石打丸山スキー場のロッジの一角で仮営業を始めたピザハウスでアルバイトをしました。経営している方々3名は本当に都会的で洗練された大人の方という印象でした。
当時スキーは裕福なレジャーで、スキー客もほとんどが東京の方、ピザという料理自体がまだ東京でもあまり知られていない時代のことです。このピザハウスは東京出店を目論んでのアンテナショップだったのです。
カウンターにはキャンティワインが並び、都会の大人達が洗練された会話をしながら食事を楽しんでいる光景は、とても衝撃的であり、スキーが目当てで行ったアルバイトでしたが、このレストラン世界に魅せられた私は料理の道へ進む決心をしました。
まさにこの体験が私の運命を変えたのです。
それまでの私は理容師を目指していたのですが、改めて料理人を目指し、上京しました。20歳からという遅い修行の開始でした。
しかし、東京ではなかなか自分の目標とするような職場には就職出来ず苦悩していました。そんな時、日本司厨士協会が、毎年スイスに料理人を派遣留学することを知り、25歳で渡欧を決断しました。
スタートはスイスのレマン湖沿いのホテルです。ヨーロッパは当時から週休2日、その他に夏と冬にそれぞれ一か月ずつのバカンスがあったのですが、その休みを返上し他のレストランで働かせてもらい修行に明け暮れていました。そうした日々の中で、ミシュラン3ツ星レストラン7件、2ツ星、1ツ星、郷土レストラン、ビストロ、ケーキ屋、ショコラティエなどトータル27件の店で働くことが出来ました。3年間の予定での渡欧でしたが、本場フランスレストランのレベルは高く、自分の仕事に満足するのには更に3年、まる6年かかりました。その3ツ星の中でも当時最高とされていたスイスのジラルデではセクションのシェフという立場だけでなくメニュー開発も任されるまでに認められたことは自分自身の大きな励みになりました。
わずかに時間がとれ、少しでもお金が溜まると星付きレストランやビストロで仲間と食べ歩き、舌も訓練しました。日本での食生活からは一変、渡欧初期には日本料理も食べたくなりましたが、美味しい料理を食べると満足感で一杯になり、日本料理のことはすっかり忘れてしまうほど、私にとってフランス料理は日常生活の一部となりました。
フランスに残るのか、日本に帰国するのか悩みましたが、私を魅了した、この”素晴らしい食の世界”をより多くの方に体感してほしいと言う思で帰国の決断をしました。
フランス時代 3つ星レストランの仲間と
1986年に帰国。
6年ぶりの日本は驚くほど様変わりしていました。
大学生までもが、ベンツ・BMWなどの高級車を乗りまわし、高級なレストランで食事をし、ビールのような感覚でドンペリニョン(最高級シャンパン)をあけ、タキシードを着て高級ディスコに夜な夜な繰り出す姿は奇異そのものにうつりました。社会が成熟し落ち着いたヨーロッパで生活してきた私には日本人は感覚が麻痺し、経済大国とは名ばかり、豊かになったどころか心は貧しくなったとしか思えず、底知れぬ虚しさを感じました。そんな時代に株式会社ビギが経営する南青山のル・ポワッソン ルージュに店長兼シェフとして入社しました。
就任後、店に来店されるほとんどのお客様は料理評論家のように料理を論じ、TVや雑誌に紹介されると店には行列ができる有様。
このような日々の中で、私のレストランや料理にかける情熱は果たして本当に理解されているのだろうかという疑問が浮かび、料理人としての熱い志がうすれて行く自分を感じ3年間で退社しました。
充電期間の必要を感じ再渡仏することにしました。
日本を離れ色々と考えることができた再渡仏の1年間は、私のその後の人生に多大な影響を与えてくれました。
1990年、大人・ビストロ・ハイクオリティー・パリ・アールヌーボー・食事を楽しむをキーワードに、文京区白山に店舗デザイン・収支計画全てを、私自身がプロデュースしたレストラン「ラ・ベルドゥジュール」を開店。
オーナーシェフとして経営していくこととしました。
大通りから外れ住宅街に位置し、経営的には不利な立地条件の為、オープン前は同業種の仲間だけでなく各取引業者の方たちからも失敗するのは時間の問題とまで言われましたが、私のコンセプトはマーケットに受け入れられ、順調なスタートと安定した経営が出来ました。
1992年バブル経済が破綻し、日本ホテル界の頂点とも言える帝国ホテルの経営不振によりメインダイニング“プルミエ”もフランスレストランから鉄板焼きに業態変更しました。これを期に私は当初のコンセプト(大人の気軽なレストラン)の形態から特別なハレの日に成熟した大人が本当に楽しめるレストランに業態を変更しました。完全予約制のうえドレスコードも設け高級フランスレストランにリニューアルしたのです。私のライバルはフランスやスイスといった本場の3ツ星レストランでした。
1998年、長い間出演を断り続けた人気番組“料理の鉄人”の出演を承諾しました。入管の問題から本当にその場にならないと食材もわからず、挑戦者にとってはまさに真剣勝負!引き受けたからには、慣れないキッチンであっても圧勝しかありません。「プロとは結果を出すこと」。フランスで働いていたときも日本でオーナーシェフとなってからも、プロとして最善を尽くす姿勢は今も同じです。
Restaurant La Belle-De-Jour
レストラン「ラ・ベルドゥジュール」
私には、5〜6年の周期で転機がやって来るようです。45歳のとき、50歳になったら現役から退く決断をしました。
食べる事が好きで入ったこの世界、「私の好物は美味しい物」。
ジャンルを問わず食べ歩き、食通・グルメとしての膨大な味覚の蓄積、そしてオーナーシェフ時代より様々なプロデュースや相談に応じてきた経験を活かし、2006年よりは、料理家・飲食プロデューサー・コンサルタントとして現在に至ります。
深津泰弘は、自身が料理人としての技術を磨いた「フランス料理」のみには留まらず、和・洋・中・イタリアン・居酒屋など、多種多様のジャンルの飲食店コンサルタントを手がけてきました。
それが可能な理由のひとつに、「フランス料理」というジャンルの特色があります。
フランス料理が「味の芸術」と絶賛される所以は、正確でかつ高度な、複合的技法をもって作り出されるからであり、料理人は、世界各国の料理に精通し、味覚だけでなく豊富な経験に基づいた、味の構成力や理論を必要とされます。
その複雑で官能的な世界を作り上げる技術は、幅広いジャンルの料理にも応用できるのです。
このフランス料理で培った豊富な経験に加え、深津自身の食通・グルメとしての膨大な知識・味覚の蓄積を、「地域性(地域の特産品などの理解)」・「時代性(トレンド・社会的動向)」・「社会性(消費者の意識)」のフィルターを通して、的確な判断を導きだしていくことが、深津泰弘のコンサルタントの特長です。

レストラン ワールド[六本木]で料理の修業を開始。上野精養軒など数件で修行を続ける。
渡欧にて合計27軒 料理及びホテル、レストラン経営を学ぶ。★は渡欧当時
株式会社ビギの外食部門 「レストラン ル・ポワソンルージュ」 の店長シェフとして入社。
独立準備の為 退社
開業準備のため、再渡仏
レストラン ラ・ベル ドゥ ジュール (東京文京区白山)
店舗デザイン等トータルプロデュースし、オーナーシェフとして開店。
■ 室内楽コンサートとフランス料理の夕べを30回ほど開催
■ フランス地方料理フェア(フランスよりシェフを招いて共演) *第1回バスク地方料理 *第2回アルザス地方料理
■ ワイン会(料理とワインのマリアージュ) 100回以上開催
■ 名古屋犬山市キャッスルプラザホテルの招聘で深津泰弘料理フェア開催
■ フジテレビ料理の鉄人では鹿料理で鉄人に勝利
■ フランス料理の歴史とマナー教室を開催
オープンカフェ&レストラン エスカルゴ (東京代々木)
店舗デザイン等トータルプロデュースし、ラ・ベル ドゥ ジュールの姉妹店として開店。
社名を(有)イグレック・エ・ヒロより、レストランの屋号であった「ラ・ベルドゥジュール」に変更
食の本質を捉えた豊富な経験を活かし、主たる活動を料理家・飲食プロデューサーに移行し現在に至る。
| 会社名: | 有限会社 ラ・ベル ドゥ ジュール |
| 代表者: | 深津 泰弘 |
| 所在地: | 〒112-0013 東京都文京区音羽2-1-6-401 |
| 業務内容: | ●飲食店プロデュース・コンサルティング ●食品開発・メニュー提案 ●商業企画・業態開発プロデュース ●スタッフ教育・指導 ●オンラインショップ |
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